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春めいてきました

本日27日は「イースター」ですね。基督教の「復活祭」ということで、キリストの復活を祝う主旨の祭礼です。何故こう改めて書きましたかと云うとですね、マスコミがまたぞろ流行らそうとしているのが見え見えでして・・・。

「ハロウィン」も私はもう20年くらい前からこっそりクラブイベントで遊んでいたクチなので、正直なところ、今更感が満載です。ゾンビメイクもはっきりいって見飽きました(笑)。最近では「バルス祭り」がわざわざ取り上げられましたが、取り上げられた瞬間、「終わったな」と思います。「実況」を見ながら愉しむ「バルス祭り」は昨年で終わりました。何年も前からこっそり楽しんでいるユーザーにとっては、人口に膾炙してしまうと終焉なのが世の常ですね。

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石上神宮近くの一足早い櫻

 

 

さて、お彼岸や春分も過ぎて春めいてきました。花見に行楽に、良い季節ですね。私もいわゆる『一本桜』を見に行きたいものです。

・・・と、春は明るくウキウキなイメージがありますが、私はあまり好きじゃないのです。

「春先は生き物がよく死ぬ」
春先と秋口は原因不明の死亡が多いです。とにかくコロコロ死んでしまいます。生き物を飼う人間にとってはある意味、魔の季節です。

「木の芽人」の出現
春は「木の芽時」ともいいまして樹木が芽吹く頃のことなのですが、どうにもこの頃は街中でも独り言をいう人が多かったり。そういう人は「君子危うきに近寄らず」で逆に分かりやすいのですが、見た目は普通でも言動や考え方が無茶苦茶な人が増えてくるのがこの季節で、そういう人を「木の芽人」といいます。

「季節の変わり目で影響を受けているんだな~」と嵐が過ぎ去るのを待ちましょう。

 

季節の変わり目というのは、地磁気やら太陽光線やら気圧、引力、いろんな外界からの影響が及びます。そういった気候・環境の変わり目で身体的なストレスがかかる時期であると共に、進級、進学、異動、転居など社会的なストレスにもさらされる時期でもあります。自律神経失調やホルモンバランスの崩れにつながります。

「知らぬが仏」とは言いますが、外界からの影響を知らず知らずに受けているのは本人にとって幸せかもしれません。しかし毎年、これを死ぬまで繰り返すわけです。

 

太極拳では逆にこの影響を自覚し、あるいは察知することを大事とします。

李老師によれば「大水の前に姿を消す川の鯉と同じ」だそうで、異変の前にはスッと姿を消す、あるいは大人しく身を潜める感覚と知恵を身につけることを目指します。これは太極拳における「武」の側面です。

「武」というとガチガチに戦うことがすぐにイメージされるかと思いますが、そうではありません。まずは「姿を消す」要するに「逃げる」ことが第一です。「武」の第一義は勝つことではありません。「生き延びる」ことです。

※このあたりはやはり大陸の思想なので、江戸期以降の日本武術よりも色濃いのではないかと

第一、強大である自然の影響を相手に真っ向から戦うことなどできません。やり過ごす知恵ですね。そういう意味では野生動物っぽくあることを目指しています(笑)。危険を察知せねばさっさと逃げることもできません。また、そういう気配りこそが(悪意を持つ)相手に接近を容易に許さないことになります。

 

手始めにして基本ですが、太極拳では「内観」といって自分自身の肉体を感じる練習を大事にします。内臓や骨などはもちろん、己の体重を感じることが実はかなり難しかったりします。これがまたリラックスにつながったりします。その上で己の身体に起こる、または起こりうる異変を感じるわけですね。具体的な対処法を講じられるわけでなくとも、「感じる、知る」そして「気を付ける」これだけで天と地ほどの差があります。

 

スマホをポチポチしながら歩いたり、相手が避けてくれるだろうと自転車を飛ばしたり、そういう危機意識の無さや他への依存心こそが大きな災いを招いたりしますね。スマホ画面を見つめながら音楽を聴いて耳をふさぎ、さらに自転車を運転する。実はそれだけで「安全」のために「幸運」を消費していることになってたり・・・・。

[ 武徳 ] 太極拳が太極「拳」である以上、

太極拳って、太極「拳」である以上、「武術」なのです。

太極拳のコツと云いますか、気でも身体操作でも呼吸でも、その「理」を教えるためには、どうしても武の側面から解説したり、見本をみせたり、あるいは対人をもって体感したりしてもらう必要があります。

※対練はお互いを傷めるものでも優劣をつけるものでもありません

また教室ではほとんどの場合、対練はお約束練習しかしません

手品感覚です(笑)。

 

 

授業の中で、「武」という言葉を出したり、そちらにウエイトが傾いてしまうと、眉をひそめる人も少なからずいます。野蛮、暴力的、感情的なイメージが湧くのではないで しょうか。

しかし、「武」と云うのはそれらから最も遠いところにあるものです。武の根本である「争わざるの理」は、大きく見れば国家の保全、君主の功業。 小さく見れば我々の日常生活や人間関係にこそ生かされるものです。

 

○体において:隙や無駄のない立ち居振る舞い。転びにくい歩き方。免疫力、回復力のある体。

武というのは「身体操作」「身体の気血の健康さ」が重要です。

○心において:恐怖や不安を克服する。自分に負けない。他への思いやり。

他の存在を認めつつも、それに影響されない自分。

ビビってもいい。それに心が捉われなければ、という感じです。

 

「武徳」という言葉があります。

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これは中国の古典である『春秋左氏伝』に出てくる言葉で、君主の徳を表現したものです。

武に七つの徳あり

=「禁暴」、「戢(ゆう)兵」、「保大」、「定功」、「安民」、「和衆」、「豊財」。

一、暴を禁ず ……… むやみな暴力を禁じる

二、兵を収(おさ)む ……… 武器をしまう

三、大を保つ ……… 国の威勢を大きいままに保つ

四、功(こう)を定む ……… 君主としての功あるように励む

五、民を安んず ……… 民心を安定させる

六、衆を和(やわ)らぐ ……… 大衆を仲良くさせる

七.財を豊かにする ………経済を発展させる

 

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剣道家で知らない者のいない、有名な京都の「武徳殿」もここに由来します。

 

また、これらは将軍家剣術指南役である柳生宗矩のいうところの「大の兵法」であり、戦場での兵士の働きは「小の兵法」であり、まして日常の喧嘩で勝つとかわがままを通すというのは「匹夫の剣」に他なりません。

 

そして合氣道の創始者:植芝盛平翁の言葉ですが、

『正勝吾勝(まさかつあかつ)』 つまり、まず自分に勝ってこそ正義に勝つ、こと。

「争う心が起きたときには、すでに自分に負けてしまっている」と。