自分という常識を捨てる

「表現できるものは、何か表現しないことによって現れてくるんじゃないのかい」

土方巽 舞踏家(1928~1986)

%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e3%81%b2%e3%81%98%e3%81%8b%e3%81%9f101231

「暗黒舞踏」(前衛舞踊のひとつ。現在は単に舞踏とすることが多い)の確立者として有名。
ただし、暗黒舞踏を定義することはかなり難しい。

 

「よくわからない」としか言いようがない。
土方巽の流れを汲む田中泯(タナカ-ミン)の公演を見たことがあるが、あの時は「年齢相応の身体じゃないな」と感じたくらい。田中泯は「たそがれ清兵衛」で怪演をしている。

 

古流剣術である鹿島神流においては、

【神傳なれば,赤子の心の如く無我無念にして,人生固有の直なる処を以て本意と為すべし】

それは、
「赤子が示す武術行動は人為的な知恵が介在しない神授の業であるとし、その防御法と攻撃法を見習うべし」ということである。

鹿島神流の操法原理は、赤子が頭を叩かれようとする際に示す物理学的・力学的な動作そのものであると述べられている。

それでいて、相手に対しては「獣の心(人の動物としての本能)を衝動的に目覚めさせるように仕掛ける戦略を持つ、というのだからたまったものではない。

 

%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e7%84%a1fig_3_4

また、江戸前期の剣術流派である「無住心剣術(夕雲流)」は、「弱い者には勝ち、強い者には負け、同程度の相手とは相討ちしかない」という、剣術の相対的な問題を、禅にその回答を求めた結果の流儀である。

【生まれついたままの純粋な赤子の心でもって、種々の分別を離れ、外面に捉われることなく、ただ刀を引き上げて、自然と感ずるところへ刀を落とすだけである】

虚飾を廃し、あまりに純粋な剣理を求めた結果の弊害か、その神髄を理解しうる人材が育つことはなかった。禅の悟りに等しい、高邁な剣理を解明した「無住心剣流」は、同流随一の使い手と呼べる三代目・真里谷円四郎を最後に、その道統は途絶えている。

 

 

「ルパン三世VS複製人間」では、敵役のマモーが捉えたルパンの深層意識を観察する機械にかけて、驚く。

「ルパンは夢を見ない!? それは神の…あるいは白痴の意識に他ならない!」

(※白痴には重度の知的障害の意味があるため、今はオリジナルの台詞は放送されていません)
クローン技術により何千年も生きてきた、全知全能の「神」を自称するマモーですらがたどり着けなかった境地である。

%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e3%81%be%e3%82%82%e3%83%bclvc14

ただのコソ泥にしか過ぎない存在にも関わらず「神の認識」を持つルパン三世に対し、「神」として何千年近く人類の歴史に介入してきたマモーの嫉妬が明確になった瞬間である。その嫉妬によってマモーが一介の「凡人」でしかなかったことが証明され、ルパンを殺そうとするのだ。

(夢をみないルパンのいうところの「盗まれた夢」等、この作品はまだまだ読み解けないところが多いのです)

ルパンの深層意識は虚無。まさに神の領域。

 

ドイツの哲学者であるオイゲン・ヘリゲル。
日本を訪れた時、弓聖・阿波研造を尋ねて弓術を学んだ。
阿波師範は「的を狙うのではダメだ。矢が勝手に的に向かっていくようにしなさい」
ヘリゲル「WHAT?」

ドイツ人なのでそういったかどうかわからないが、当然のことながらヘリゲルは全く理解できなかった。
当然である。
狙わずして的を射る? そんなことは不可能だからだ。
アタマおかしいんじゃないの?

常識で考えれば。

%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e3%81%8a%e3%81%84%e3%81%92%e3%82%93e3b

後にヘリゲルは修行を経て、疑いを持つことも、思い煩うことも捨て、射るのではなく”射られる”ことを掴んだという。

 

快楽殺人に溺れるシリアルキラーも、それに没頭しているときは「自分」が消滅している。
見えているのは、そこに広がる「世界」だけであり、羞恥や躊躇いといった自我が作動していない。つまり、殺人者ですらも「その間」だけは悟りを開いた覚者、といえる。
だが覚者である至福の時と、自責の念に苛まされるマインドタイムが交互に起こり、その苦痛・苦悩がその人の雰囲気として漂うことになる。よって、世間でいうところの「狂人」の扱いとなりうる。

%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e3%81%b5%e3%83%bc%e3%81%93%e3%83%bcbald1

社会において「狂人」を「狂人」と認定するものを考えたミシェル・フーコー

 

土方巽の言葉に戻ると、では、何のために踊っているのかということになる。

作舞の意図を拒絶。表現における人間的特権を希薄化。

剣術にも通じる、作為、人為を拒否した世界とはどのようなものだろうか?
舞台の上には舞踏家すら存在せず、そこにはうごめく何かがあり、人々はそれに魅せられる。

渋沢龍彦は「それは肉体から日常的な目的性を奪い、純粋な動きに還元することによって、今までに見たことも無いような美を作り出す表現である」と定義している。

 

 

本来的にいうならば、健康法としても武術としてすらも拒否して太極拳なり八卦掌なり功夫を積むべきであろうと思われるが、それを表明してしまうと新入会員が来なくなるから、書かない。

 

 

 

そう考えると、

李鴻儒老師「正しいは間違い、間違いは正しい」

という言葉も重みを増してくる。

 

求めるものであってはならない。 そうである限り、その真逆のものが起こるようになる。

走っているのと同じことだ。 あなたがどこかへ向かうほど、すべては遠く後ろに去って行く。

 

 

 

・・・ということは。

新入会員を期待してのブログ記事だと誰も入ってこないということだな。

 

この日以降、内容的に突飛になってきたら申し訳ない。
もう下心満載の記事を書くのを止めたということで(笑)。