第3回 浅野博一個展 『ねこたま』

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一見、なんの変哲もない瓦片だと思います。
これは2000年前の猫の足跡だそうです。

1969年に英国・グロスター市のバークレー通りで発掘。およそ西暦100年頃・イギリスがブリタニアと呼ばれていた時代に作られたものとみられています。現在はグロスター博物館に保管されていますが、発掘から40年以上が過ぎた2015年の6月になって、猫の足あとがついていることに気づいたとのこと。

ねこにまつわるハプニングはいつの時代でも変わらぬもののようです。

 

山岡鉄舟や宮本武蔵の例を挙げずとも、剣術家と書画は表裏一体のもの。
ピカソやダリ、ジョン・レノンの名を連ねなくとも藝術家に猫は欠かせぬもの。

 

浅野博一個展「ねこたま」とは、そういうものです。

 

 

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『かごねこ』

 

 

「雑とう」という言葉では言い尽くせないほどに人間であふれかえった週末の道頓堀。
人で犇めきあうそんな場所に画廊はあるのです。

 

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「ギャラリー 香」

 

さて。

「ねこたま」という表題であるが、あえてそれを訊くことはしない。そうつけたからそうなのだ。そもそもその解釈をめぐることが目的ではない。

「わざ言語」という言葉をご存じだろうか。
感覚の共有を通して介する認知プロセスのひとつであり、いうなれば伝統芸能、スポーツといった「わざ」の継承が求められる領域における人がどのようにわざを言語化するのか、わざを言語として伝えるにはどのような条件が必要になってくるのか、そういった事柄である。%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e5%80%8b%e5%b1%95img_3390

たとえば柳生新陰流においては「転(まろばし)」という極意がある。それは「剣法として、敵と対峙したり、その折、”陽だまりの猫”の如く、安らかな心を保ち、敵の動きや状況に応じ、自在に変化、転化、対応することを大事とした。したがって、形や外見にとらわれず、昔風に言うと、常形を持たず、構えもない。」ということである。

最低限の知識や経験がいるとはいえ、なによりも感覚の共有がなされていないと「陽だまりのねこの如くとは何ぞや?」となる。考えたところで解るわけがない。

知りたい欲求はある。たしかに有る。私だって聞いてしまう。

人はどうしても先に聞きたがる。しかし、その行動こそがいかに愚かな事であり、結果何も学ぶことなど出来ないのではないかと思う。

 

太極拳の練習でも浅野師範がいろいろな表現をされているが、解らずとも出来ずとも、とりあえず耳に残しておくのが吉。いつか解る時がくる。

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前回とはまた違った描き方のねこたち。輪郭がややあいまいな感じがしている中で眼だけが鋭い、といった感じ。おおよその生き物はそういったもので、狩りのため、逃避のため、周囲に身を溶け込ませるのだ。こういった野性味を感じさせる反面、上記の「かごねこ」や「くるのこないの」といったねこの生活感を感じさせるものも多い。

 

%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3%e3%80%80%e5%80%8b%e5%b1%95img_3395「かまって」

ねこを飼っている人なら誰しもが解るアレではないだろうか。浅野師範との談笑の中で「この状態でスルーすると、アレッ?って顔をする」と話されていたが、容易にその顔が浮かぶ。
前後の動態を想像する愉しさがあるのだ。

やはり、ねことの絶妙な距離感が楽しい。

世間にはステレオタイプな猫との付き合い方が数多ある。
猫の下僕、猫に使える、お猫様といった関係。「反射」というよりはもはや「走性」レベルともいうべき、ペットショップで「かわいい」を連呼する冷やかし。身勝手な自己憐憫行為である「野良猫エサやり」etc・・・。
個人的な所感を含むとはいえ、どこかしら「病的」な雰囲気は否めない。
世間の、ねこにまつわる作品もどこか偏りを感じさせるものが多く、興味がわかない。
中途半端が多く、逆に突き抜けるくらい偏っていた方が面白いが突き抜けるほどの根性もないわけで、変にねこを持ち上げている観も好きではない。

浅野師範のねこに対するスタンスはあくまでも自然で、中庸を感じさせる。

おしつけがましさもない。

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どこかで見たことがある人たち。
右端:某大魔王
中央:某ジョブズ氏

「水墨画は空間である」

毎回、浅野師範の口から出る言葉であるが、何度聞いてもそれは重いのである。

水墨画では余白を見せ、余白の解釈が重要である。「余白」というと文字通り「余った白い空間」と思いがちだが、「余った」空間など存在しない。その「余白」は極めて緻密に計算された絶妙な抽象の世界なのである。

禅で言うところの「無用の用」にも通じる極意である。

太極拳でも一見すると無意味に思われることが、実はそうではないことが多い。また、武は養生につながり、養生は武を支える。余りも無駄もない、循環した世界観がある。

※参考

構図にみる大和絵と漢画の融合

http://ysiuruhasi.exblog.jp/18426809/

 

「雪舟(雪舟等楊)」:室町時代に活動した水墨画家・禅僧
かつて雪舟が中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立し、後の日本画壇へ与えた影響は余人が想像以上に大きい。その流れの一端を感じることができるのではないだろうか。

 

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言わずと知れたベラ様である

 

画においては、紙に筆をおき、線を引く。
武においては、腕を上げて、下ろす。

その単純極まりない行為に秘められた精神性。

これから回を重ねるにつれ、論理と言語の限界を突破した先の、無の境地に至る過程がここにある。

 

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浅野博一 第3回個展 「ねこたま」

ギャラリー香 1F

2016年9月8日~9月13日

11:00AM~7:00PM(最終日5:00終了)