礼儀正しい=油断しない

「武家の礼法は、平時の武芸」

小笠原流では礼法と武芸は表裏一体であり、合わせて「糾法」とする。

 

平時におけるすべての所作・立ち居振る舞いは「構え」なのです。礼法は「構えの法」といっても過言ではありません。構えとは、次に起こりうる不確定の動作に瞬間的に移るための未決定な準備状態でありまして、その不確定の状態の動きを潜在化した一時的な静態、つまりは「静中動」の実現なのです。%e5%a4%aa%e6%a5%b5%e6%8b%b3a-future-was-something-to-be-earned

三船敏郎
殺陣ではない剣術(居合)の遣い手でもあります

ある意味においては「太極(=混沌)」と言えなくもありません。白でもなければ黒でもない、あらゆる変化を内包し、自在に融合することが理想ですね。

なので、型と形を取ることが目的化してしまうと静の固定化になり、太極拳が型体操に劣化してしまいます。
茶道などでもその多くは「お手本」とどれだけ寸分違わず、形をマネできるかの、ただの「碗を扱う型真似競技」になってしまっている観もあります。

 

私の国語力では解説しても分かってもらえないのであまり言いませんが、初心者や健康志向だけ、あるいは武術志向だけの人にはこのあたりを理解していただけると、太極拳、というか「武」の妙味が味わえて大変面白くなるのです。

 

このように「平時における」心構えまでもが今でも何とか残っている国と文化を持つ日本(ひのもと)なのですから、これを堪能しない手はありません。

 

※「小笠原流」は本来的には「武家」であり、武家故実に基づいた礼法(弓馬術も含む)を司り、男子一系です。なぜかヘンテコな「礼法」だけを教えているところもあるようですが、それはちょっとどうかと思います。
手重ね、肘張りなんかは典型的ですね。

 

 

このように平時の武芸ということで、いついかなる時も・・・という感じになると息苦しく思えてきますが、これも習慣次第のもので、戦後、現代の我々はそういった訓練を受けてきていないのでそう感じるだけでしょう。

また、武家の礼法においての「礼儀正しい」ということは、つまり「油断しない」ということでもあります。

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ボーッとしているようで、いつでも逃げるのが動物

 

今、対面している相手が、一体どんな相手か、何を考えているのか、まったく分からない。はたまた、自分にいかなる敵意や思惑をもっているのか分からないという「認識」。それに基づいて「油断しない」という態度が、「礼儀正しい」姿勢に出るということでしょう。

たとえば、昨今の過度なクレームは、ある意味において相手が逆上して危害を加えてこないであろうという「(根拠のない)約束」「期待」に基づいてなされていることが多いと思います。逆上した相手が隠し持っていたナイフを使うかもしれない。文句をつけた見返りがあの世行きなんてことは夢にも思っていないでしょう。

 

仕事でもどこでも不作法な人に会うと思います。でも、そういう人にたいしてはある意味「安心」してしまってもよいのではないかと思います。というのは、そういう人というのは結局大したことがないからです。不作法な態度をとるというのは、相手や状況を見くびっているということと同義です。

見くびるというのは、失礼だとかいう以前に、総じて認識が甘い、ゆるい、ということですから。

とうぜん、対人に留まらないことは言うに及ばず。

 

昨今、馬鹿みたいに繰り返し使われている「おもてなし」ですが、他国・他民族から見れば「恭順」「従属を表現する行為」にしか見えてないのではないかなという危機感ばかりが募りますねぇ。
その多くは食うか食われるかの虎狼の歴史とお国柄。「親愛」なんてのは余裕のある、ほんの上層階級にしかわからないことです。

 

「お互いに適切な距離感を保ちましょう」
「お互いに隙は見せず付け入らせず」
「不用意な踏み込みは、その首をいつでも刎ねますよ」

といった武士の国の気概を持ちたいものです。