破れ袋

木曜日教室、月曜日教室ともに初稽古を終え、本格的に始動です。

今は出来なくても、先生方が言っている事はアタマの片隅にでも置いといてください。続けていればいつか「ああそういうことか」とハッとする時がきます。

 

 

氏神さまへの参拝を済ませていたので、15日の松の内までには行っておきたかったのが上賀茂神社。京都国立博物館で雪舟も観たい。歯医者の予約もある・・・。ということで、休日に上賀茂・下鴨・大田神社への初詣を済ませ(さすがに昇殿参拝ではありません)、京都国立博物館で「雪舟」を観て、帰宅して仮眠をとってから歯医者に行きました。行きも帰りも京阪電車でずっと寝てましたので気力・体力的にはセーフ。

 

 

京都国立博物館は「酉特集」でしたが、もっとも見たかったのが「雪舟」。
それは一双の大きな花鳥図屏風ですが、ただただ「重い」です。それでいて重苦しさは微塵もなく、何となく曼荼羅的な雰囲気もあるような気がします。
室町期のものですが、この状態で残っているのは奇跡でしょうね。

伊藤若冲もけっこうありましたが、「配り物・走り描き」クラスのものが多くて、それほどでも。
ただ、究極までシンプルさを追求した「山水図」は目に留まりました。

 

 

 

さて、今年初の易の授業。

生年月日占や運勢占で世爻(≒自分)が破れている(年、月、日により冲されている→破壊されている)のは、大変よろしくなく、凶である。人格的にも不安定であったり、また頑迷だったりすることが多い。

ということです。
そうであるならばどうしようもないですね、と言ったところ、

李老師曰く、

「多くを望まず、慎ましく生きることは問題ない。また、何も為せず何も成らないということは、逆に言えば、何もしなくて良いということである。挑戦もむしろしてはいけない。あるがままに生きることは問題ない。修行ともいえる」

いうなれば「破れ袋」であるので、何一つ入らない。入ってもこぼれてしまう。しかし、人間というものは生まれた時は何も持たず、また死ぬ時はこの世に一切合切を置いていく身である。

禅的に言えば「本来無一物」が近いだろうか。事物はすべて本来、空(くう)であるから 、執着すべきものは何一つないという。

他人に有ること。自分に無いこと。それらに捉われてはいけないのだ。

 

 

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これは「古伊賀水指 銘『破れ袋』」 重要文化財

利休時代までは日用雑器にしか過ぎなかった古伊賀が、

たいへん刺激的で挑戦的なモノとしてエポックメイキングな価値観を

付与されたもののひとつが「破れ袋」

 

 

ただし、そういう人はほとんど他人の言う事を聞かないネ、と李老師は付け加えている(苦笑)。