太極拳を始めるにあたって

必要なモノ。

会費と月謝。

以上。

・・・・半分冗談ですが、残り半分は本気です。「熱意とやる気があるなら大丈夫!!」と勢いよく書きたいところですが、熱意は冷めます。やる気は萎えます。根気は消えます。人間なんてそんなものです。

 

 

やはり「利」なんじゃないかと思います。利用、利益、利点etc・・・。当会のサイトをみて何らかの「利」を得られると思った人は入会してください。太極拳 ATMAGI3_2

「利」。ただし、そこには「経世済民」の理念があることが望ましい。簡単に言うと「世の中を治め人民の苦しみを救うという経済の本質」があるべきなのです。もちろんそこまで大きな理念は求めませんが、身の回りの手近な範囲、たとえば自身がより健康になって何かを成す。家族のため、仕事のため、何かのため・・・・。そうではなくて、単に人より強く成らんがための「匹夫の勇」は社会人としてあるべき姿勢ではありません。

 

そういう意味ではその人の身体的能力というのはまったくどうでもイイ訳です。運動神経、柔軟性、理解力、体力、気力、一切不問。あるかないか分からない「才能」なんてアテにする必要はありません。

 

♪よくある「〇×だから~できません」シリーズ

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・体が柔らかくないから  これぞ「柔軟信仰」

世間一般における、体が柔らかいこと、また体が柔らかい人を崇める『柔軟信仰』にはほとほと困り果てております(苦笑)。これって世間ではとんでもないステータスなんですね。

 

 

太極拳を始めるにあたってのネックのひとつがコレです。どれだけ説いても信仰が解けない。

身体の柔らかさの話題が始まるとすごく盛り上がります。授業が脱線することも珍しくありません。身体が固い逆自慢に始まり(笑)、各自の柔軟経験談から柔軟法披露大会、柔軟がもたらす健康促進議論、長生きのための柔軟性の必要性を説き、脱線ついでにいきなり始まるみんなでやろう柔軟体操講座etc・・・・・・・・・・。
私の個人的な結論は、単純にストレッチは持論を展開するより先に「四の五の言わずにやれ」です、家で(苦笑)。

これはこれでいかに関心が高いかという証拠でもあり、ある意味で注目するべきテーマであることは間違いありません。

柔軟信仰」で検索をかけたら私が2017/05/17に同じ内容で書いてました。そちらの方を参照してください。

 

軸や力が通っている柔軟性は魅力ですが、そうでなければどうでもイイ話。身体が柔らかくなったところで「軸」や「体幹」が得られる訳でもありません。ダンスだって、体が柔らかいから「ウェーブ」などが出来るわけじゃありません。脚を前後に開脚するスプリットだって、地面に着いた後に立ち上がれなければ見せる意味はほとんどありません。Y字バランスだって見るべきは上がっている脚の高さではなく骨盤の傾き具合。ダンスは身体が柔らかいから、ではなくて柔らかく使える筋肉の方が重要なのです。ダンスにしても太極拳にしても柔らかい動きは感覚制御によるもので、体の器質的な柔らかさによるものではありません。で、静止状態や床に座っている状態でどれほど柔らかくても、動いている状態で体が安定して脚を上げられないとほとんど意味がないです。だから軸、体幹が重要なんですよ。

太極拳 ATMonitorInfo

柔軟な思考は必要ですが、体の柔軟性はどちらでもイイです。

特に重点的に蹴り技(腿法)をやりたいのならば、ストレッチは必要かもしれませんけど。

 

・頭が悪いから  [(絶対恐怖領域)]

頭が悪いから覚えられない、理解できない。そういった言葉を聞くことがあります。

これはある意味において「私の頭が悪いのは生まれついてのモノでどうしようもありません」という先天的なもの、という言い訳、さらにいえば「被害者意識」にも聞こえます。それはどちらかというとその人がその人自身に言い聞かせているような気もします。周囲の同情を求める方向に気が行ってしまうので自分の中で意気が上がらないのです。自分の中の力が呼び起せないのです。

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一方で、何らかの「ヘルプ信号」ともいえますので、教える側としてはアプローチ等を素早く変えていく必要もあるわけですが。

昔、そこそこの中高年の人に「わたし、頭が悪いので覚えられません!」ときっぱり言われた時は、年下から見て仮にも年配者の自嘲はみっともないな・・・と心の底で思った事は内緒です(苦笑)。ただ、逆に言うと「もっと丁寧に教えろ」「手取り足取り教えないと覚えないぞ」「私の学びたいように指導しろ」といった開き直りや脅しにも取れます。先述した「被害者意識」にも近いものがありますね。こういう手合いは昨今の習い事系ではけっこう多いようですが、幸いにして果て無き「道」を共に歩む当会の会員さんには存在しておりません。なので言ってしまいますが、こういう手合いは「下の下」です。これこそ可哀想なくらい「頭が悪い」。

 

「頭の悪い」のは記憶力や想像性、演算能力の不足といったことではなく、ほとんどの場合は「受け入れられない」「思い切りが悪い」「不安感」といった自我による障壁作用です。

 

また、「頭が悪い」と自ら発言する事は、「習得が早い」「理解が早い」という世間一般的な「頭の良さ」が自分に無いことを嘆いているとも言えます。私には理解力が無い、回転の速さも無い、要領のよさも無い・・・ない、ない、ない。ま、仮に頑張ってそういった能力を獲得したとしても上には上がいますので中途半端な頭の良さが「ある」ことに苦しみ、また再び「ない、ない」を繰り返して苦しむことになるのです。

人間は無いものを考え続ける性質を持ちます。

あればあったで、頭の良さが「ある」人はそれに感謝したことがあるでしょうか?

 

明るいダメダメ思考でよいのです。「下手な考え休むに似たり」。無ければいっそ頭を空っぽにして「素直」に人からの教えを詰め込めれば済む話です。考えなければいい。結果にこだわらなければいいだけのことです。動かしていればそのうち結果はついてきます。行動するだけで上達していくのです。

「頭が悪い」という徹底した自覚・・・・いっそのこと思い切って愚者、愚物であると認識することもまた大事。

『人は愚者になりてこそ往生する』

親鸞上人 『末燈鈔』

愚者と言う自覚こそが自分を人並みの生活をさせていたのかもしれません。もっとも、愚者と言っても社会性や常識は備えて真面目に生きることが前提です。自分自身を律すること、あらゆることに注意深くあること、他人を傷つけないことは頭の良し悪しには無関係なのですから。

上でも書いたように「頭が悪いから丁寧に教えろ」的な脅しや開き直りをする人は「往生」がほど遠くなるので可哀想なくらいなのです。

 

そんなわけで「〇×だから~できない」というA.T.フィールド[ヒトの持つ心の壁]は必要ありません。