ヨガと太極拳

今やヨガというとファッショナブルであり、それでいて自分というモノを高めてくれる、素晴らしいフィットネスだと思います。それにひきかえ、太極拳は・・・。おじいちゃんおばあちゃんの健康体操のイメージが脱却できません。

先人を恨みます(苦笑)。

 

さて、太極拳とヨガの異なる点はいくつかありますが、
そのひとつとして「相手(他)」がいること、あるいは想定することがあります。

太極拳が「拳法」である以上、当然のことです。
自に対する他、内部に対する外部、インナーとアウター、五行易でいうと世爻と応爻・・・のように、必ず自分以外の何かが在るのです。人間に限らず、空気の粒子の中、あるいは地球という球体の上に在る自分など、様々な在り様を想定することができます。

これは大きな視線では「自然界」、身近な視線では「社会」に人が身を置く以上、避けられない事なのです。

太極拳indentity

世の中は得てして「他者の承認」を推してきますが、
太極拳的には他に影響されない、他との比較を放棄することを目指します

 

仏陀曰く「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

 

 

太極拳(武術)においては彼我戦力差、つまり相手よりも自分の方を不利、劣勢、脆弱、低いと想定します。想定するというのは心配することではありません。不安になることでもありません。自分の感情、喜怒哀楽に振り回されないための練習です。

 

敵と環境は選べないことによる最悪の想定であり、決して他人との比較ではありません。
過去も未来も関係なく、今の状態で、今あるもので何とかしなければならない。

大声をだして威嚇しても、相手の意志が貫徹していれば無意味です。
社会の肩書を叫べば何割増しに見えるかもしれませんが、どれほど役に立つものか。
お金で懐柔できないかもしれません。

武器のひとつすら持っていない中で、孤立しているという最悪最低の環境ですね。軍でも「徒手格闘」の訓練をするのはそういう状況を疑似的にも経験するため、という話を聞いたことがあります。

天災も含めて、人間が絶望しかねない劣悪条件の中でどうやって切り抜けていくかというシミュレーションであり、それを経ることで「生きていくための智慧」が生まれるのです。

当然ですが「平常心」も求められるわけです。

心が平静で霊性の極みの中に安住しつつ静止しており、心が見える景色や他人に一切乱されない時、それを三昧(さんまい/サマーディ)の状態と呼びます。

太極拳souteigai

ここで大事なのが「平常心」。「平常心」があってこそ智慧も活用できる。

 

人間は楽な環境下、条件下では心の問題を考えることを知らず知らずに放棄しているかもしれません。

 

 

「自と他の様々な想定」「その中で自分はどうあるべきか」「あるべき智慧は?」
それをもたらすのが太極拳の利点であると思います。