「易し~い太極拳」は無い

太極拳 もんてslide-img1「モンテッソーリ教育」
20世紀初頭にマリア・モンテッソーリによって考案された教育法。

イタリアローマ医師として精神病院で働いていたモンテッソーリは知的障害児へ感覚教育法を施し知的水準を上げるという効果を見せ、1907年に設立した貧困層の健常児を対象とした保育施設「子どもの家」において、その独特な教育法を完成させた。

Wiki「モンテッソーリ教育」より

少し前に話題になった中学生棋士の報道において、彼が入園した幼稚園が「モンテッソーリ教育」を採用していたことが紹介されていました。その教育内容、アプローチに興味があります。

抜粋なのですが、「集中力、忍耐力、継続力」の3点こそが重要ということです。

仮にも教える立場にありますので、こういった教育や指導方法などは広く目を通すように心がけています。これもまた大の兵法の一環でしょうか(笑)。たとえば教えるにあたり「経験主義」に陥れば、自分の経験のみを大事とするため「客観性」が失われてしまいます。そこでは経験的、つまりその人が自分で会得した感性的方法よる教え方しかなされなくなり、またそれしかないからなのです。その人と類似性のある人だけしか上達できなくなってしまいます。

 

話の枕はさておいて、本来的に考えるならば「易しい太極拳」から入って順序を辿って「難しい太極拳」というものはありません。初心者であっても、そのまったく初心の時から最高最上の太極拳である必要があります。初心者だから、女性だから、お年寄りだから、という様々な理由をつけて中途半端な技を教えるわけにはいかないのです。

 

このあたりが如何ともしがたい壁であり、教わる側としても挫折感を味わってしまって諦めてしまったり、教える側としても迷った挙句、妥協してしまったり、大変な悩みどころです。

なかなか「教える」というのは大変なものです。

A,B,C,D,Eと要素があれば、その人にとって何を優先するべきか、取捨選択します。この人は「B」を指摘し、あの人は「D」を優先させて「E」を無視して良いと伝え、また別の人はちょっと慣れてきているから「A」と「C」と二項目を要求してみようか、と。多くを要求しても重荷になりますので、そのあたりは教える側のさじ加減ですね。

 

ただ、手厚く助言や教えるばかりのデメリットもあります。太極道として、健身の一助として「自覚・自発・自助」を損なってしまいかねないのです。これは「武術」面でもそうですが、意外に思われるかもしれませんが「健康」面の厳しいところでもあるでしょう。結論から言うと健康というのは「自分の身体は自分で正す」ことなのです。残念ながら誰も代わって上げることはできないからです。

 

太極拳 とっぷがんhqdefault

いきなりですが、映画「トップガン(1986)」の美人教官。

こうやれば大丈夫になる、というものではなく、いろいろな悪条件の中で大丈夫にくらせるのはどういう訳か、考えてみてほしいのです。空気中にばい菌はウヨウヨいますが、誰がどうやってそれを吸っても大丈夫にしているのか。頭が疲労してくると欠伸が出るが、誰がどうやって出しているのか。

 

持っている自分の力を自覚しないで助けを求め、あるいは諦め、自分の身体の事は自分の力を発揮して処すべきことだと思わず、周囲の同情を求めるようにその声を使ってしまうから自分の身体の中の「勢い」にならないのです。やはりどこかに他人の力をあてにしているところがあると、自分の力が働かないのです。持っている力が潜在したままで役に立ちません。

何と言うか、もう少し困れば力が発揮できるかもしれないのに・・・・。ここでうっかり庇ったり守ったり力を貸すと、その人の勢いを消しているかもしれないと思い、心を鬼にして見守るだけというコトもあります。老師や師範の教えの時に初心者や初級者にはチンプンカンプンだったり戸惑っている観がありありなことは珍しくありません。中級者にはある程度かみ砕いたアドバイスをしたりしますが、とりわけ初心者や初級者の場合、老師や師範の教えの場合は「先ず体験してもらう」というのが主眼と考えています。出来る、出来ないは問題ではないのです。様々な切り口、非言語的アプローチ、不安感、疲労感、緊張etc・・・自分はどう感じ、どう思い、どう受け止めるのか、それがまた「自分の中の感じ」を確かめられるものと考えています。
※老師・師範がいても、折を見て講師陣が授業の進行を妨げない範囲で見守っている&チョコチョコ助言しますのでご心配なく

やはり「トップガン」とくればこの曲でしょうか。