「会」 呼吸について  もう健康体操じゃない!

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いきなりですが、アンチエイジングに有効な一つの手・・・・それは、「講師」になること。

なんか冗談みたいですが、本当のことです。

単純に生徒の前だと「気の張り方」が違ってくるのでそれはもう効果てきめん。
嘘だと思うのなら講師を目指してみてはいかがでしょうか。

 

さてさて。

今日の練習も呼吸を中心にやったわけですが、まずは動きに呼吸を伴うことから始まり、いずれは動きが呼吸に乗り、呼吸が主体になることを目指します。

こういう呼吸に関連して、なかなか良い表現だと思ったのが「会」。

もうこれ以上、息を吐ききれば絶命すると思われる瞬間が「会」というのです。

これは弓道の言葉で、

『引き分けで目いっぱい矢を引き収めたら、その状態から数秒間静止します。この間を「会」と呼びます』

仏教用語の「会者定離」からきているそうです。

 

吐き続けることにより、「会」に入ると吸うでもなく、また吐くでもない状態に近くなります。やがて息は少なくなり、出てこなくなります。しかし、意識としては吐き続け「呼吸運動」を止めることはありません。

このあたり、浅野師範が口を酸っぱくして言っていることに似ていますね。

また、息を吐き続けることで姿勢が崩れにくくなるそうです。

 

弓道にしろ、太極拳にしろ、合気道にしろ、東洋の身体操作体系は、自然や太極、宇宙といった人間の力では捉えどころのない、どうしようもないものに対して身を委ねることを目指す面があります。
委ねるためには、先ず自分自身の「自然」を知らなければなりません。

それは個性でもあり、真我でもあり、癖でもあるでしょう。

外の自然に、自分自身の「自然」を委ねる第一歩が「呼吸」であります。物理的においても外気が生体内の圧力によって流入流出し、生化学的にはガス交換(酸素が取り入れられ、二酸化炭素が出る)が行われます。

一介の「生き物」として、その「呼吸」と運動が合わされば、宇宙の「自然」と同化することは難しくありません。
そして、多くの「技」は、そういったモノの中から自ずと生じる産物に過ぎないのです。

 

少々小難しい話になりましたが、呼吸を伴わない太極拳は太極拳ではない、というコトです。

 

・・・・ところが、呼吸を忘れるなというと「呼吸」に心が囚われ、肩の力を抜けというと「肩」が気になりはじめ、三体式の立ち方を指摘するとその事にのみ、心が奪われる。

有心之無心之心と申す事の候。有心の心と申すは妄心と同じ事にて、
有心とはアルココロと読む文字にて候。何事にても一方へ思ひ語る所あり、
心に思ふ事ありて分別思案生ずる程に有心の心と申し候。

無心の心と申すは石の本心と同じ事にて固まり定まりたる事なく分別も思案も
何れも無き時の心、総身に広ごりて全体に行き渡る心を無心の心と申すなり。
どこにも置かぬ心なり。石が木の様にてはなし、留まる所なきを無心と申すなり

禅僧・沢庵の「不動智神妙録」より

心が何かひとつの事に止まれば、心の中にその事によって何かが生まれる。
つまりそれが有心となり、動作思考を制約する。
ひとつの事に定着した心は自由な働きはしなくなる。
車と同じことで、輪を固定させれば車は回らなくなるだろう。

よって、人の心も一個所に固定させては、水のように自由に流れることはできない。といって、自ら無心になろうなろうとしても、その「なろう」という心がすでに有心になるから、やはり一個所に止まってしまうのです。
しかし、とりたてて何かを思ったり、しようとしなければ、心の中にあるものは自然と去り、無心の境地に至るだろう。

 

もうコレ、健康体操じゃありませんよね(苦笑)。